英語を習得する事に限らず、何かを習得しようとする根底には「Can you enjoy the moment?」が出来るかどうかに日本とアメリカの文化的な違いを感じる。いや、習得のみならず全般的に通ずる事のように思われる。仕事でさえ。。。
日本の諺には「好きこそものの上手なれ」という言葉があるが、この言葉の延長線上にあるのが「Can you enjoy the moment?」ではなかろうか?しかしながら、どうもこの言葉のみならず、この概念が日本の文化には欠如しているような気がする。いや、ひょっとしたらこの概念を持つことが許されていない制約があるのかもしれない。そこは完全性は善、不完全性は悪、という本質が日本社会の根底にあるのでは無いかという持論の元に仮定しているのだが、これは今回のテーマとは異なるのでまた別の機会に。
「Can you enjoy the moment?」=「その瞬間を楽しむ」。。。これは一体どういう事だろう?まず楽しむ事に焦点を当てて考えてみたい。
確か前回、日本の英語教育のフレームワークには欠陥がある話をした気がするが、実は欠陥が仮にあったとしても、「その瞬間を楽しむ」ことが出来るのであれば、これはその個人としては効果があったと言えるであろう。逆説的ではあるが、「その瞬間を楽しむ」事ができないフレームワークだからこそ、欠陥があると言えるのでは無いか、という捉え方もできる。おそらくこれは事実では無いかと思う。文法(規約)の詰め込みを、非日常的で無味乾燥な文言で覚える事の瞬間に楽しみを覚えられる事が果たしてできるのであろうか?
英語学習のワークフローを従来のシステムを暗記型に、そして個人の思考を重視した思考型に大きく2つに分けられる事を前提に、そのプロセスを考えてみたい。もちろんここではテスト(アセスメント)の制約は外した前提で考える。
1.暗記型
文法(ルール)の暗記 -----> 非日常的な文章の暗記 -----> 非実用的 ------> 楽しくない
2.思考型
文章の自由作成 --------------> 日常的な文章の作成 --------> 実用的 ------------> 楽しい
まず、暗記型のフローから分かる事は、暗記作業がある事、そして個人に非実用的な文章に基づいた暗記作業である事、その結果、作業の瞬間に楽しさは生まれないという結論づけた。それとは反対に、思考型のフローは個人に日常的な文章を自分の思考の結果、実用的な文章が身につくため、思考過程で楽しさが生まれると結論づけた。ここで注意したいのが、非日常と日常の言葉。ここで定義する非日常、日常は、
日常 .......... 自分自身にとって関心のある事、コミュニケーションしたい事。
非日常 ...... 自分自身にとって関心の無い事、誰かに与えられた事象。
である。実用的であるかどうかは、まさにこの差が示すところである。そして、改めて楽しいかどうかを決める要素は、以下のように定義したい。
1.楽しくない
非目的 暗記(非思考) 非創造 非実用
2.楽しい
目的 思考(非暗記)創造 実用
さて、ここまでのところで英語習得のプロセスで楽しむためのキーワードを紹介した。目的を持つこと、暗記では無く思考すること、自分から作り出す創造性、そして実用的であるかどうか。これらの要素が楽しさと強く関連していると考えたい。更には、楽しさはこらの要素が発揮されている条件で初めて生み出されると結論づけたい。英語のみならず、何かを習得するには今一度、プロセスに、また、その瞬間を楽しめているのかどうか振り返ってもらいたい。また、こういったキーワードが見え隠れしていないかも確認してもらいたい。次回はこれらのキーワードの妨げとなる制約について考えたい。
2014年4月22日火曜日
怒りについて考える
実は少しほど前から週一回の頻度で賢者(あえて文中ではこう書きます)と問答をする機会を持っていて、つい最近問答した「人との衝突・不和」についていろいろと考えさせられたので、忘れないうちにメモをしておく事にした。
人との衝突・不和の原因を探ると、その本質は行為に対する不満が怒りを生み、怒りが進行した状態が、連鎖的に怒りを生み出した結果として衝突・不和が起こる状態だと言える。つまり、怒りの矛先が行為(人)に向かうと衝突が起こるという現象だと仮定できる。そして、行為に対する不満は必然的に起こりえる事だと仮定すると、行為をコントロールする(怒りの矛先を行為に向ける)のは理にかなっていない。また、不満を我慢してしまうのは、矛先を自分自身に向けてしまう事になるので自己破綻してしまう。これでは賢くない。さあどうしたものか。。?
…怒りの矛先を状況(条件)に向ける…
怒りの矛先を状況(条件)に向けるという事はどういうことだろう?これを理解するにはまず小さな視点から大きな視点に変える必要がある。人の行為に注目する事を小さな視点だとすると、その行為を生み出している状況や条件に注目する事は大きな視点だと言える。木を見て森を見ず、という諺を知っている人は多いだろう。大きな視点で状況、条件を観察すると何が見えてくるのだろうか?
ちょっと具体例を出してみる。例えば、お昼の時間にとても混雑した(状況・条件)で昼食を好きなレストランで食べたい。しかしパーキングスペースがなかなか無い中(状況・条件)、やっと見つかったスペースを他にスペースを探していた人に横取りされた(行為)の結果、相手に対して怒りを覚えてしまう。
パーキングスペースを横取りした行為に怒りの矛先を向けると、他にスペースを探していた人との衝突はおそらく起こるだろう。では、とても混雑した時間帯、パーキングスペースが無い状況や条件に怒りの矛先を向けると何が起こるのだろうか?何か見えてくるのだろうか?どういった事が考えられるのだろうか?
状況・条件
- 混雑した時間に昼食を取らないといけない
- 店のパーキングスペースが少ない
- 昼食の時間帯に車が多い。人が多い。
- 昼食を取りにその場所まで行かなければならない。
- …
などなど、怒りの矛先を状況や条件に向けると、制限されている状況や条件を広く展開する事ができる。そしてその結果、自分、もしくは相手の制限(問題)されている状況を理解する事が分かる。この展開ができ問題定義をする事ができれば、解決策を考え出すのはごく自然な事になる。そしてこれが正しい怒りの使い方であり、人との衝突や不和を避ける最善のプロセスだと思われる。
怒りはいろんな形で現れる。これはごく自然の事。物覚えが悪い部下に怒りを覚えたり、誰かの仕事の失敗や、頼んでいた物が届かない、盗難にあう、約束を破られる、など、無限に怒りを覚える事は世の中にある。そして人の行為に矛先を向けるのは簡単でラクだが、衝突を生み出す事になる。衝突は辛い状況をさらに招く事になり得る。
怒りの矛先を状況や条件に向けて問題定義から解決策に達するには、自分の頭で考えて創造力を駆使する苦労がある。しかしこの苦労は価値があると結論に達した問答だった。そしていかに自分が創造力に欠け、思考停止の状態にいたかと思うと、まだまだ青いなと思わせられた。
2014年4月4日金曜日
そろそろ英語を習得する事について書こう
育児の事もあってか、最近は言語の習得過程についてよく考えさせられます。どうやって英語を覚えたか?習得したか?よく聞かれる質問ですが、振り返ってみると日本の教育システムの枠組みでは、英語習得にほとんど役に立たなかったように思えます(笑)。(いや、全く無駄ってわけではなかったですが。。。)
じゃあどうやって習得したのか?
それは英語を習得したい先にある目的を持つことです。
目的を持つことで問題にぶつかります。問題にぶつかり、自分の頭で考え、解決策を見つける。これを繰り返す。そして思考したらそれは身につきます。
しかしながら、日本の教育システムの中ではルールを記憶する事に重きが置かれているので、英語を習得する先にある目的が無い。(受験という目的はあるかもしれませんが。。。)個人的な目的意識が希薄だと、結局は習得に至らない。つまり、手段の目的化では習得できません。
そして、どうやら日本の社会にはこのシンプルな習得プロセスの弊害となる障壁がたくさんあるようです。それを個人的な経験を元に、何回かに分けて書いてみようと思います。
後世に活かされるために。英語習得に苦しんでる人のために。一石を投じてみます。
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